何事も「なぜ?ではなく、なんのために?」を心がける

最近、自宅の書庫を漁っては昔読んだしょうもない自己啓発やハウツー本なんかをパラッと読んでみたり、ちょっとかじった分野の学術誌を「難しいなぁ」と呟きながらお酒を飲んだりしています。

本は積むのが趣味みたいな私の書庫には、なぜ買ったのか理解に苦しむタレントの自叙伝やお勉強用の技術書・参考書、社会人になりたての頃に読み漁った自己啓発・ハウツー本を中心に色々な本があります。もちろん宗教や哲学なんかの難しい本もあれば、ただの写真集、漫画、エヴァの資料集なんかもたくさん。数えたことはないけれど2500~3000冊くらいはあって、だけどそのほとんどは一応ちゃんと読んであります。

ふと、一昔前に流行ったアドラーの「嫌われる勇気」が気になったので読み返していると、改めて目的論ってすごいなぁと感じるわけです。

ここで突然OLの井戸端会議が連想されます。ものすごい剣幕で怒る上司、怒られる部下を横目にOL同士で「なんであの人あんなに怒っているの?」なんて会話をしているのでしょう。それを目的論に置き換えて、「あの人は何のために怒っているの?」としてみます。

すると急に(私にとっては)知的な会話に見える。きっとその上司に向かって直接「何のために怒っているんですか?」なんて聞いたら最後、火に油を注ぐようなもの。だけどすごく知的(私にとっては)。

もし自分が怒られている立場だったらどうだろうか。原因論的ななぜ怒られているのかは一旦置いておいて、ひどく怒られているこの状況下で相手に対して「あなたは何のために怒っているのですか?」なんて聞いたこはないし、もし自分が怒っている立場だったとしても、考えたこともない。みんなそうだよね。

けれど「なぜ怒られているのか/怒っているのか」なんて大抵は双方が心の中ではわかっているだろうし、そのことについて深く考えたり叱責することには何の意味もない。ここでいう意味は=価値。

だから目的が必要、それは後付ではなく先行して。きっと目的があれば上司は怒鳴り散らすことはないし、その目的を達するために必要な手続き、接し方など方法論が変わる。むしろ怒るという情動的な表現ではなくなるし、相手も怒られているなんて感じる必要もないだろう。だから「何のために怒っているのですか?」なんて質問自体も必要がなくなる。

考えながら手を動かしてるからちょっとよくわからなくなってきたけどそういうことだよね。

行動は原因ではなく目的によって喚起される、これが当たり前になれば誰もストレスで苦労はしなくて良くなるし、きっとみんなポジティブな思考を持って日々過ごすことができるよね。だって怒るって概念というか発想がそもそもなくなってるよねこれ。その代わりある意味冷たく厳しい世の中にはなりそうだけど。

例えば仕事でなにか目的を持って行動した結果ミスをした、そのミスは「何らかの目的」を持った上司なり同僚に指摘されて帰結した。だけが結末ではないよね。「何らかの目的」を誰も持たなかったらどうなるのか。「ミスをしない人員を補充すること」が目的になれば怒られることも指摘されることもなくただただ理由を述べて解雇されるということもこの目的論に従った結果だよね。

過去に囚われず目的を持って明るく楽しくポジティブに生きていこう、という自分本意な目線だけで受け入れれば、すごく良いことに思えるけれど、同時にそれってすごい怖いことだなと思う。

もちろん課題の分離って考え方も同時に出てくるから、自分でコントロールができないそんなことは考えないのがこの本の中では正解なんだけれど、現実問題それじゃあやっていけませんよってことなんて腐るほどあるわけで、色々と条件を付け加えた上で理想論として解釈する必要がありそう。

「嫌われる勇気を持った結果、ただただ嫌われて不当に追いやられました、完。」にならないように良いところだけ取り入れましょうねというメモでした。

もっと考えたいけど今度にしよう。あと何故買ったのかわからない本を作らないために、目的を持って本は買いましょう(戒め)。

おわり

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